Akiteru Kawai
京焼・清水焼
清水寺に続く参道からほど近く、盛夏には陶器祭りで人がにぎわう東山五条からすこし入った閑静な住宅街。民家のような佇まいで、河井工房はこの地で三代にわたり作陶を続けてきた。
1926年、民衆的工芸品に価値を見い出し、柳宗悦・浜田庄司らとともに陶芸家の河井寛次郎は民藝運動を提唱した。名も無い職人がつくり、民衆が生活のなかで日常的に使うものにこそ美しさがある─「用の美」を見い出したその概念は、当時の市井の暮らしのあり方に大きな影響を与えた。民藝運動が提唱された時代には、スペイン風邪、関東大震災といった社会事変があり、工業化による大量生産が広がりつつある時代であった。現代と重なる時代背景もあり、民藝に対する評価は近年さらに高まりつつある。
河井工房の初代、河井武一は1927年より叔父である寛次郎の下で40年近く修業。呉須(ごす)、辰砂(しんしゃ)、飴釉(あめゆう)、鉄釉(てつゆう)など寛次郎の民藝芸術を継承し、1976年に京都は亀岡市に南丹窯(登窯・ガス窯)を築いた。
二代目の透は、父である武一と寛次郎に師事。薫陶を受けながらその教えを発展させ、精力的に作品を作り続けた。
その志と技術は、当代である三代目の亮輝に受け継がれる。「祖父からも父からも何も教わっておらず、全部見よう見まね。民藝運動のこともよう知りません」と朗らかに話す。初代も二代目も厳しく、「ザ・昭和の男」で、言葉で何かを教えることはせず、手を動かす姿を見せた。祖父、父、息子が横一列に並び、共にろくろを回すことでその真髄は伝承されていった。
「僕からしたら、初代は重厚さのなかに繊細さがある。二代目は力強くて圧がある。僕はどちらの良さも出せるものづりができたらと思います」
亮輝は茶碗、食器、花器など、さまざまな器を幅広く手掛ける。一日に百個もの器を作ることもあるが、分業せずに自身ですべての工程を手掛ける。器を手に取るとほどよい厚みがあり、「この食器はこの料理に合うかも」と、つい想像をかき立てられる。実用性、彩りの豊かさ、垣間見える遊び心、そしてぬくもりには、脈々と三代の魅力が受け継がれている。
「自分が作っているものは美術品ではないから、評価もいらない」
亮輝は公募展などに出品したことは一度もない。器の出来を自然にゆだね、そのとき生まれたものを大切にし、次第に独自の表現を見い出していった。広島のセレクトショップで個展を開催したり、ファッションデザイナーが開催する器市に出品するなど、多角的に活動を続けている。
「誰が作ったかではなく、純粋に自分がいいなと思った器を使うのがええと思います」。先代たちの背中から学んだ実直さは、器づくりだけでなく、使い手への思いやりにもあらわれる。
「山を見ている 山も見ている」─ 工房には、寛次郎筆の銘が掲げられている。私たちが山を見ているとき、山もまた私たちを見ている。河井工房の器は、私たちがほんのすこし意識を変えるだけで、一瞬や日常があらたな彩りを帯びることをひそかに物語っている。
河井工房
Akiteru Kawai
◉初代 河井 武一(かわい・たけいち)
1908年島根県生まれ。27年叔父の河井寛次郎の下で修業。53年に独立し自作に専念。64年シドニー・メルボルン・ニュージーランド・ウェリントンにて個展を開催。89年逝去。
◉二代 河井 透(かわい・とおる)
1941年京都府にて武一の長男として生まれる。62年父の下で作陶生活に入る。併せて大叔父寛次郎に薫陶を得る。77年広島福屋にて父子展を開催、以後個展を精力的に開催。2021年逝去。
◉三代 河井 亮輝(かわい・あきてる)
1975年京都府にて透の長男として生まれる。95年京都府立陶工高等技術専門校、陶磁器成型科卒業。96年同校陶磁器研究科卒業。2000年二代目に師事。