Nishijin-maizuru
西陣織-京都
今出川大宮上ル。江戸時代中期には糸屋や織物商が建ち並び、一日に千両もの商いが行われたことから「千両ヶ辻」と呼ばれた、西陣の中核とも言えるエリアだ。現在もこの辺りを歩くと、染め屋や織工房いくつか現存する。この地で生産される先染の紋織物は「西陣織」と称され、
1976(昭和51)年には国の伝統的工芸品に指定された。京都のみならず日本が誇る伝統工芸品として、国内外に知れ渡っている。
歴史ある西陣織の帯屋として、今なお続くのが「西陣まいづる」だ。創業は1907(明治40)年。西陣織の帯問屋「木村卯兵衛商店」で修行をし、暖簾分けを許された舞鶴正七が始めた。「帯問屋ではライバルになる。ならば織屋業として始めよう」と、「舞鶴正七商店」の名で工房を構えたという。
江戸から明治、そして昭和初期にかけ西陣織は繁栄を極めていった。西陣は決して広大な地域ではないが、当時は帯屋だけで千以上もの工房が軒を連ねていたという。
1931(昭和6)年、満州事変が起こり、1937(昭和12)年に日中戦争が勃発。戦争は人々の暮らしにも忍び寄った。全国に「奢侈(しゃし)品等製造販売制限規則」(七・七禁令)が通達され、「ぜいたくは敵だ」と言われるようになった。
当然ながら、西陣織の製造にも影響は及んだ。ほとんどの工房が閉業を余儀なくされ、国によって選ばれたもののみが「軍需産業」として稼業を許されることになった。京都で残された工房は十軒程。国から原材料を支給され軍事産業としての織物を製造する事になる。西陣まいづるはその一つとして、ものづくりを絶えず続けてきた。
4代目の舞鶴政之は、振り返りこう言う。「昨今のパンデミックの際は、大きな影響を受けました。けれど、先代の時代は戦時中でもっと苦しかった。もっと頑張れと、励まされているように感じました」。
服飾品に対する人々の意識は時代とともに変わりつつある。かつてのようなブランド志向は減り、ファストファッションの台頭により質の良いものを安価で買えるようになった。花嫁道具として着物を仕立てる人は少なくなり、フォーマルな場面でさえ着物を着用する人はそう多くはない。それでも歴史ある西陣織の担い手として、西陣まいづるには伝統を絶やさないための使命がある。「今ますます贅沢品ともいえる帯をつくるのはどうしてか。私たちがつくるものは『価値』や『意味』だと考えます」と、舞鶴は話す。
一方、未曾有の事態が続く現代において、新たなものづくりにも挑みたいと思っている。歴史の中で培った絹糸を織る技術を生かし、自然災害にも耐えうるような暖かく、軽やかな布製品を考えているという。すべては人々に寄り添えるように。その思いは百年の時とともに織りなされ、次代へと続いていく。
西陣まいづる
Nishijin-maizuru
◉西陣まいづる
1907(明治40)年、「舞鶴正七商店」として創業。西陣織の帯地製造を行う。ゴブラン紹巴、三眠蚕、耀虹螺鈿、琴糸織などの帯をつくるほか、昨今は他社との共同開発にて新たな商品開発も行う。2003(平成15)年、西陣織大会にて第一回内閣総理大臣賞を受賞するなど、受賞歴も多数。